中村奈緒子「ネイチャー」

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nakamura201401

開催情報

【作家】
中村奈緒子

【期間】2014年1月11日(土)〜2月8日(土)
【料金】無料

http://www.kodamagallery.com/nakamura201401/index.html

会場

会場名:児玉画廊|京都
webサイト:http://www.kodamagallery.com/
アクセス:〒601-8025 京都市南区東九条柳下町67-2
電話番号:075-693-4075
開館時間:11:00~19:00
休館日等:日曜日、月曜日、祝日休み

概要

 中村はいわゆる工芸や手芸、手技から着想を得たテクニックを駆使して、様々な形態の作品を複合的に構成するインスタレーションを制作しています。児玉画廊では昨年、グループショーignore your perspective 18 “Fascinating Analysis”(児玉画廊, 京都)で初紹介、そしてKodama Gallery Project としての個展“Wood Bender’s Handbook”(児玉画廊, 京都)と継続的に紹介して参りました。”Fascinating Analysis”で発表したインスタレーション「サンガリア」は、木材と、結束用のPE平テープを主材とした構成で、庭のような、或は山野の景観を想起させる作品です。角材を精巧なほぞ継ぎによって組み上げた構造を母体とし、そこに色とりどりのPEテープを丁寧に掛け回していくことで、山や谷の景観が何とも軽やかに立ち現れます。そして、その周囲には石や池の流水、草木を庭園に配置するかのように、奇妙なオブジェが絶妙な間合いで配置されていますが、使用されているプラスチックやビニール素材特有の色彩や軽やかな質感、あるいはベニヤ板やアクリル板といった硬質な素材感が、手芸的な親近感と工業製品のような無愛想さの両方を感じさせます。タイトルは「国破れて山河あり」の杜甫の春望に掛けたと作家が言うように、ふざけた冗談のようでありつつもどこか悲哀めいた、何とも不思議な空気感を纏ったランドスケープとしての作品です。
 初個展”Wood Bender’s Handbook”は、展覧会名が示す通り、一冊の木材曲げ加工の解説書を基に全ての構成物が制作されたインスタレーションです。曲げわっぱやスキー板、椅子など、曲げ木の為の専門的な知識を分かりやすく解説したアメリカのDIYガイドブックなのですが、曲げ加工をするために必要となる「治具」と呼ばれる器具についても詳細に書かれていた事から、中村はその「治具」の一つ一つまでも自分の手で作ることから始めました。そして、完成した曲げ木だけでなく、それら器具も併せてインスタレーションの構成要素とし、まさにガイドブックを地で行くクラフトショーケースを展開しました。そして、最もの要は、ベニヤ板に直径5mm程度の穴を碁盤目状に無数に空け、それにPEテープを刺繍のように通して人物像を表す、という作品です。ただ単に刺繍を施している訳ではありません。テープを何度も何度も繰り返し穴に通していくのですが、作品の裏側に回り込めば、尋常ではない本数のPEテープの全てが2m以上の長さに引き延ばされ、抱えきれないほどの束になって背後に重くのしかかっているような様子が目に入ってきます。表面に見える人物像(実はガイドブックに登場している人々)は何の灰汁もなく、手芸的な親しみやすさと几帳面な仕事を見せていますが、裏ではその軽やかな様相を180度ひっくり返した異様さを湛えているのです。このような両極性を潜ませた「作り込み」と膨大な作業の痕跡が、中村の作品の見所であり、鑑賞者はまずその点に圧倒されます。さらに中村の作品を作る行為には前提条件があり、第一に「適当/いい加減」であること。第二に「~し過ぎる」こと。この二点は真逆で相容れない事のように思われますが、中村の作品を読み解く上で重要なポイントは、この反目し合う要素が同時に内在した独特のニュアンスを見極めることだと言えるでしょう。
 「適当/いい加減」であるというのは、制作上の手抜きという意味ではありません。作家の例えを借りて言えば「壊れた鍋の取っ手の代わりにインクの切れたマジックのキャップがピッタリ」というような、一見馬鹿げていても、それぞれの要素はゴミ同然であっても、結果として受け入れてしまえば何の問題もない、といったニュアンスを表しています。「日本人的な」と作家は表現していますが、文字にしても宗教にしても、受け入れて応用しながら上手くこなしてきた日本の「適当さ」のようなものが自分の中にもある、ということなのでしょう。中村奈緒子、というフィルターを通すと、偶然にしても意図的にしても何かそういう「適当」な現象が起きる、そしてそれを開き直った態度で受け入れていくことで作品として形を成していくのです。
 中村はつい没頭して延々と同じことを「~し過ぎる」性格のため、過度に技術や手法そのものに対して固執するかのような傾向があります。前述の「Wood Bender’s Handbook」における気が遠くなる程の紐通し作業や、複雑で難易度の高い「治具」の造作の正確さ、「サンガリア」における木工技術の厳密さなどは、制作上必要なプロセスというよりは、作業に没入「~し過ぎ」て抑えられなくなってしまった衝動の産物であり、度を超えてしまうとそれは異様さを纏うものです。工芸品のような素材を活かした美しさや技術の精巧さとは裏腹に、行き過ぎた行為の結果として調和のボーダーを踏み出してしまったような得体の知れなさが中村作品にはあるのです。
 今回の個展では、新たに七宝焼きの技術や、細やかなドローイングの要素がインスタレーションの要点の一つになっています。七宝はその工程の煩雑さや作業の緻密さなど、まさに中村好みの手法であると言えます。ガラス様の透明度のある質感や工程を経ると後戻りできない緊張感のある制作のプロセスは、中村を没頭させるには十分です。また、インスタレーションは全体的に3×6のベニヤ板を基本として構成されます。壁面には養生テープで貼付けたり、斜めに立てかけてたわませたり、床に敷いてみたりと、様々です。その一枚一枚にはいずれも何かしらのドローイングが描かれています。思わず嘆息するような優美な線や淡く綺麗な色彩などで描かれていますが、しかし絵の良し悪しではなく「後味の無さ」が印象の多くを占めます。それは、そこに作為や意図があまりに感じられないからかも知れません。中村にとって、「適当」であることや「~し過ぎる」ことは、視点を変えれば理性的な判断を放棄した態度であると読み替える事も出来ます。取捨選択を止めて、何かに我を忘れること、それはどちらも能動的な作為や意図とは乖離する方向を示しています。それが絵なのか模様なのか、工芸や手芸なのか、果たしてそれが美術と言い得るか、そういった枠に落とし込む事は自らはしない、という中村なりのステートメントであると言えるかも知れません。この中村の独特の立ち位置は、ともすれば予期せぬような革新的な事象すら生むのかも知れません。今回の展覧会に向けて作家が述べた次の文章に、本音が垣間見えているように思えます。

ふと手を見る。肌色の皮膚が見える。緑の指ははえていない。
白い米、赤い肉、緑の野菜、あと茶色のみそ汁とか、それらをうまく混ぜ合わせればこういう色になるのか。
もしかしたらなるのかも知れない。でもそういうことじゃないんだろう。
まったくふしぎな変換がこの体を通すことで行われているようだ。
何ともすごい、おそろしいことだ。

 ごく自然のことを、「おそろしいこと」と言うのです。確かに肌は緑ではないことは分かるが緑でない理由が分からない、このように考えて理解できることと、そうでない事をがあるということに普段我々はただ目を瞑っているだけです。仮に中村の作品を観て躊躇するとすれば、それはどう理解すればいいのかが分からないのではなくて、中村の作品がごく自然に両極性を提示するが故に、閉じた目を開かざるを得なくなって、ただその事に畏れ戸惑っているだけなのかも知れません。

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