開催情報
【作家】安永正臣
【期間】2015年11月21日(日)~12月4日(金)
【料金】無料
http://www.g-utsuwakan.com/gallery/gallery1/index.htm
会場
会場名:GALLERY器館
webサイト:http://www.g-utsuwakan.com/
アクセス:〒603-8232 京都市北区紫野東野町20-17
電話番号:075-493-4521
開館時間:11:00~19:00
休館日等:木曜日休み
概要
安永正臣は、三十を出たばかりの売出し中の新進である。筆者はかねて彼の一頭抜きん出たセンスにいたく感じ入っていた。新しい才能に出会うと、いつも気持ちがざわつく。ある種の独占欲に駆られてしまう。たいした甲斐性もないのに性懲りがないのである。そんな彼が、数年前だったか、なにやら思いつめた様子で、僕、やめようかなと、続けて行くのに自信がどうも持てないのですと、そのような言葉を苦しそうに吐いたことがある。急になんだとおどろいた。どんなことでもやめたらそこでおしまいである。中途でやめた人となってしまう。また戻って来てもそう見られるのである。そんなこと言わないで、君には続けて行ってほしいのだと翻意をうながした。そのほかにもいろんなことを言って、けっこう懸命に説き伏せようとしたように思う。惜しいと思ったからである。しかしあのときの感じでは、もったいないことだがやめてしまうだろうなという印象を受けた。あのときの彼は、ものを作りながらも自身のこれからに漠然とした不安をかかえていたのだろうと思う。筆者は、才ある彼の悄然たる様子を見て惻隠の情に耐えなかった。筆者自身を顧みてということもある。
若いときは将来が期待されるだけで、現実にはまだ何も出来てはいない。何者にでもなれそうな気がするが、まだ何者でもないということに不安とか悲しみがあり、また高ぶりのようなものもあるのだろう。昂然たる気持ちと悄然たる感情が交互にやってくる。何をどのように希望しても、それが少しも今現在の事実とならないわけで、そこになにかやるせない空しさを感じなければなないのである。これがつらい。それは不満の多い不安な生活である。また憂鬱なものなのである。それをまぎらわすために、はしゃいだり騒いだりする。青春とはそういうものなのかもしれない。ひゃあひゃあと騒いでいるうちにあっという間に太郎はおじいさんということになるのである。青春は、夢と希望に満ちているとよく言われる。しかしそれがリアリティーとして眼前に現れて来るかどうか、またその将来において、果たしていったいどのような仕儀になるかは、全く不確かなのである…。こんなことを言っていると愕然としてくる。筆者などもう充分に年を食っているくせに、すべて自分のことのように思われてきた。いやきょうびの大人や年寄りの多くは筆者と大同小異なのかもしれない。いい年をして自分探しをしている大人が大勢いる。しかし彼らの将来は段々にまたは急速に少なくなっているのである。だから大人たちは、まだなににでもなれる望みがある若い人の自由を、ときにはうらやましく思うのである。そしてみっともなく若ぶったりして若い者に迎合するのである。筆者は自分の恥多き青春時代を思えば、もう結構であり、青春を追体験したいとは思わないが…。それより若い人たちはこういう大人たちを見て、はやく大人になりたいと思うだろうか。昔ほ若い者が仰ぎ見て憧れるような大人の世界というものがあったように思われる。まあ大人の世界の幼稚化が行くところまで行っているということであろう。
安永はもの作る人である。彼の場合、ものを作るのならば、ものが出来上っていくという事実が、眼前に現れながら積み重なっていくわけである。そういう事実が堆積していく生活が持続するかぎり、その生活は実質的であるといえるかもしれない。しかし彼の選択した道は、将来なお永く生きなければならない彼にとって、レールが敷設されているような安穏な道ではないだろう。芸術の人の人生には世の常の人の味わえないよろこびもあるが、しかし生涯おのれの仕事に対する不安から免れることの出来ない人生でもあるのである。筆者は彼を非常に有望な作家だと見ているが、しかしそういわれながら、その通りにならない場合は決して少なくない。
安永は最近所帯をもって子ももうけたという。もうぶれることはないだろう。なにごとにつけ継続が肝要である。彼があのときやめたいと言ったのは、あそこで初心を再び起こすためのものだったのである。芸術の人というのは、落ち込んではまた奮い立つという、苦しい繰り返しを生涯何度でも経験せねばならない。何度でも初心発心を立てねばならないのである。これのできる人とできない人の差は大きい。安永はそれに耐えて、瑞々しい精神を生涯もっていてほしいと思い云爾(しかいう)。
葎