2018年3月9日 千島土地株式会社 オフィスにて
インタビュー同席者:北村智子、木坂 葵(おおさか創造千島財団)
インタビュー:榊原充大 アシスタント:高橋 藍
写真:中谷利明(芝川氏 ポートレート)
写真提供:一般財団法人 おおさか創造千島財団
クリエイティブセンター大阪(CCO)、NAMURA ART MEETING ‘04-‘34、水都大阪へのスポンサードのみならず、設立した一般財団法人おおさか創造千島財団から大阪で活動するアーティストへの助成を2012年度から続けられています。「金は出すけど口は出さない」の言葉通り、アートやアーティストのあり方について多くは語らないものの、話す表情や行間から、アートやアーティストへの信頼や期待が伝わってくるようでもありました。
——芝川社長が芸術に関心を持つようになったきっかけは?
芝川:きっかけは2004年に名村造船所跡地で開催したNAMURA ART MEETING【以下:NAM】です。千島土地が貸していた名村造船所大阪工場の土地の返還を受けたのが1988年。当時は不動産バブルの絶頂期を迎える少し手前で、土地は貸したら借りた人のもので貸主には返ってこないと考えられていた時代でした。そんな中で結構な広い土地が返ってくるというので小躍りして、ドックが残ったままで構わないと言ってしまい、本当にそのまま返ってきた。しかしその後の活用方法がなかなか見つかりませんでした。
それであるとき、劇場プロデューサーの小原啓渡さんに「造船所の跡地は真っ暗で人もいなくて、使い道がなくて困っている」という話をしたんです。彼はこれまで三条御幸町で1928ビルの立ち上げ、「三条あかり景色」等のイベントを運営していて、もともと照明技術者なので「真っ暗」に惹かれるらしい。それで彼が名村造船所跡地を勝手に見に行った。「これは面白いので、1回何かやらせてほしい」と動き出したことがNAMのきっかけでしたね。
初代実行委員は小原啓渡、高谷史郎(ダムタイプ)、松尾惠(ヴォイスギャラリー主宰)、木ノ下智恵子(当時、神戸アートビレッジセンター アートプロデューサー)らがチーム。
提供:NAMURA ART MEETING実行委員会 撮影:八久保敬弘
その少し前に扇町ミュージアムスクエアが閉鎖され、つい最近再開したけど近鉄小劇場が閉まり、設置者の勝手な事情でそういう拠点がどんどんなくなっていった時だった。そういう話の中で、NAMを30年続けようという話を含めて初めて記者発表をしたら結構話題になって、全国から人が集まった。「おお、なるほど、こういう世界があるんや。」というのを初めて知りました。
——それまではアートに興味がなかったんですか?
芝川:そう。だから徐々に興味が出てきた。NAM1回目の時に、椿昇さん、五十嵐太郎さん、橋爪紳也さんと話したんだけど、彼らのところにだけどんどん名刺交換の列ができるんだよね。自分は面識なかったけど、人気のある人たちなんだなっていう感覚だった。
——これまでどんな芸術支援をしてこられましたか?
芝川:基本的に不動産関連が圧倒的に多いですね。名村造船所跡地をクリエイティブセンター大阪(CCO)に改装したり、同じように借地返還の際に引き受けた旅館建物をアーティスト・イン・レジデンス(AIR)に供したり。AIR大阪がスタートしたのが2008年。それで同じ発想で町全体の空き物件を活用してもらったらどうかという案が出てきて、北加賀屋クリエイティブ・ビレッジ(KCV)構想(注1)が2009年から始まりました。
AIR大阪はいわゆるレジデンス事業ではなく、アーティスト向けの宿泊施設。
大阪でクリエーションする時にアーティストは安く長く滞在できた。
実は伏線として、街にあった小さなシモタヤ(注2)はみんな潰して駐車場にしてたんです。いくらでも需要があったからね。そのピークが平成9年くらいで、当時はマイカーを持ってる人が多かった。でも車離れもあってみんなだんだん車を持たなくなってきた。それで小さなシモタヤも空き家で置かれるようになった。そうすると固定資産税は安くできるけど、人が住まないからどんどん朽ちていって結局解体することになる。
じゃあ誰か住んでた方が水も空気も入れ替わるからいいよね、ということで、アーティストに住んでもらおうということになったんです。スキルがあるから自分でリノベーションもできるし、家賃を安くして原状回復しないで出て行ってもらってもいいじゃないかと。KCV構想として、空いてる物件にどんどん入ってもらうようになった。建物はもともと借地人が建てたものなので、家賃は地代+α程度でもいいわけですよ。
それに前後してメセナアワード(注3)の「メセナ大賞」を2011年に受賞した。前例がない中で自分たちが進んでいる方向性は大丈夫かなと常に不安はあったけど、専門の方々から表彰を受けて間違いないということがわかり、さらに活動を加速することになりました。
——「不安」な中でも着実に芸術支援をしてこられたのは、どういう思いがあったんですか?
芝川:忘れられない体験があって。2006年にフランスのナントを視察した際に、ロワイヤル・ド・リュクスのパフォーマンスを見たんです。巨大な操り人形が街中を練り歩き、それを見に何万人もの人がナントを訪れる。最後に象と少女の別れのシーンがあるのですが、皆が涙しているのを見て、芸術の人を感動させる力に圧倒されたんです。その時、自分は人を感動させる力はないけれど、その力を持つ人を支援することならできると思ったんです。この体験は今でも私の芸術支援の礎となっていますね。
——アーティストとどんな付き合い方をしていますか?
芝川:椿さんとは付き合い長いけど、話が面白いし、アート業界の動向が非常に俯瞰的に見えている。この間も京都造形芸術大学の卒業制作展を見に行ったんだけど、展示している作品を買うスポンサーも見つけいるし。
——そうやって情報を得ているんですね。
芝川:だから僕はパトロンというほどのパトロンでもない。プラットフォームをつくっているだけで、特別に個人のアーティストを応援しようという思いはあまりない。買うときもその絵が気に入ったからというよりは、椿さんに「この絵どう?」って聞いたら「ええやん」っていうから買っただけ。だからそんなに特別こだわりはないんです。
——買うときは何が一番背中を押しますか?
芝川:縁やね。そういう意味では《ラバー・ダック》を制作したフロレンタイン・ホフマンとのやりとりは印象に残ってる。
《ラバー・ダック》水都大阪2009 展示風景
——ラバー・ダックはどういう経緯で実現したんですか?
芝川:「水都大阪2009」(注4)にあわせて初めて展示しました。当初、水都大阪は30億円くらいの予算があって、その設立準備委員会が2006年に海外視察に行くということで同行した時に、ナントの町からロワール川河口のサンナゼールっていう港町まで水に関わる「エスチュエール・ナント – サンナゼール」というイベントが翌年にあって、案内パンフレットにCGでラバー・ダックを河口の元潜水艦基地のところに浮かべるプログラムが載っていたり、その翌年、スペインのサラゴサ万博を観に行くときに、マドリッドのシベーレスに浮かんでいたブサイクなアヒルのオブジェを見ました。その時はただそれだけだったんですが、その後、水都大阪は当時の橋下府知事のちゃぶ台返しがあって、予算が30億から9億になった。それでプログラムの再検討で目玉となるようなアートの企画がなくなって、何か水に関わるものがないかなと考えた時に「アヒルがあるよな」と思っていたら、うちの社員が「あれはオランダにいる作家の作品ですよ」と教えてくれた。それでアムステルダムの取引先経由で連絡して、本人に「会いに行っていいか」と聞いたら「いいよ」と言われ、直接会いに行って、日本でのラバー・ダック展示が実現することになったんです。
——つまり制作から関わってたってことですか?
芝川:そう。ナントでは26mの巨大なアヒルをつくったみたいだけど、大きすぎて設置後すぐ破裂したらしい。だから大阪はもっと小さくしたんだけど、やっぱり裂けちゃった。設営初日は非常に機嫌がよかったんだけどね。生地メーカーさんから「首の部分が力学的に弱い」というのは聞いていたんだけど、できるだけシワが寄らないように空気をいっぱい入れてた。それで前夜祭までは無事だったんだけど、翌朝「いつ膨らますんですか?」と電話がかかってきた。その時は既に空気の入れすぎで破けてたんですね。修理しようということで「アヒルは鳥インフルエンザで入院中」ということにして、2週間くらいかけて復元しました。
ただ、物事ってうまくいく時は失敗談も良い方にいくね。当時インスタグラムはまだ無かったけど、観客が写真を撮影して拡散したら、みんな「これはCGや」って思うわけですよ。で、実際に現場に行くとそこにはない。「やっぱりCGや」「いや俺は見た」そういうことが話題になって、2週間後に復活した時には「ほらやっぱりいるやん!」と、一気に人気が出た。水都大阪2009はほとんどアヒルとヤノベケンジさんの《ラッキードラゴン》が話題の中心になってしまった。
その後、アヒルの生まれ故郷のCCOでNAMがあるから水都大阪の会期終了少し前に撤収したら、その後大阪に台風が来た。水都大阪の現場はもう大変だったらしいですが、そんな中アヒルは生まれ故郷でスヤスヤと寝てる。僕は「アヒルは予知能力がある」と言ってるんです(笑)。
——すごいエピソードですね。
芝川:それから、子どもたちに「でかい」とか「可愛い」とか、そういう感動がアートの力で引き起こされていることを大きくなっても思い出してもらえるようグッズを売ろうと提案したら、実際には子供じゃなくて大人に人気が出て。作家のホフマンも全く想像してなかったけど、結構よく売れるので、今や展示時のグッズ販売が世界中で定番になってる(笑)。
——アートに愛着を持たれて作家さんとも色々向き合っておられますが、そういう中で何か心がけていることはありますか?
芝川:基本的には金は出すけど口は出さない。できるだけ。だから千島財団の助成選考には一切関与しないです。本業の方で儲けて財団への寄付が増えるように頑張ってる。ただ、ハードをつくるときは口出ししますね。例えば千鳥文化の新エントランスはガラス張りにする、っていうのは僕が提案した。建て直すより金かかるけど昭和の匂いを残そう、とか、「喫茶まき」の看板を残そう、とか、そう言う口出しはしてる。
大阪・北加賀屋に残る築59年の文化住宅を改修した、クリエイターや地域の人々がゆるやかに交流するスペース。
——芸術支援によって目指すべき理想はどういうものですか?
芝川:理想というより、もともと地主としての危機感がある。間違いなく人口が減るという将来、このまちがどういう姿になるのかと想像してみると、なんの特色もなければ滅びていくだろうなと。今ここで見ている景色は戦後70年くらいの間にできた景色であって、あと70年くらいすると大阪の人口なんて戦前と同じくらいに減ってしまう。KCV構想やNAMが話題になったから、その延長線上でこのまちに特色をつけていこうということで今取り組んでいますね。
——実際に空き家率が減ったなどの効果はありますか?
北村:劇的に減ったかといわれると難しいんですが、今アーティスト向けに貸している物件が40軒くらいあるんですね。その40軒は放っておいたらお客さんがつかなかったであろう物件です。風呂がないとか、相当な投資をしないといけないような物件。そんなところにアーティストが入ってコツコツと直してもらって使えるようになっている。その上で私たちは家賃をいただいてるので、収入が発生するようになったという成果はありますね。
——会社の事業の中での利点は確実に存在しているということですね。こんなアーティストがいたらいいなと思う方はいますか?
芝川:そういうの、あまりないな。コレクションももっと系統立ててせいと怒られる。気まぐれでやっているから(笑)。ただ、時にはパトロンに対して自分を戦略的に売り込む必要もあるのでは?ダヴィンチとかミケランジェロは間違いなく当時のローマ法王とかメディチ家とかに戦略的に近づいていたはず。
例えば東京画廊の代表、山本豊津さんの本なんかを読んでいると、「売れないと意味ないよ」とはっきり言い切っているね。「1回目の個展は安くでいいから全作品売り切れ」と言う人もいる。売り切ってからそれがセカンダリー・マーケットに出てくる時にだんだん値打ちがつく。その辺が値付けもアーティストには難しいから。しばらくほっといたら売れるようになるんじゃないかとは思ってるんやけど。
——アーティストの金銭感覚についてはどう思われますか?
芝川:金銭感覚はないというと失礼だけど、やってるうちに自分の中でどんどん広がっていくから当初の予算よりもどんどん膨らんでいく。
森村泰昌さんが制作のために北加賀屋に通われていた時期があって、来るたびにどんどんつくりたいシーンが増えていったらしい。やっぱりアーティストは最初に決めた枠の中に収まらず、どんどんはみ出ていくから、周りは大変だと思う(笑)。
2016年に開催された国立国際美術館での個展のため、映像作品の撮影と展示の大半を名村で実施。
森村泰昌アナザーミュージアム 展示風景
提供:NAMURA ART MEETING実行委員会 撮影:仲川あい
芝川:CCOで開催されたDESIGNEASTで、イタリアからエンツォ・マーリが来た時も面白かった。彼が来る前、実行委員のひとりに「芝川さん、彼の機嫌が悪くなったら困るから写真撮ったりしないでくださいね!」って言われていた。でもマーリさん、来た途端に会場の名村造船所跡地を見てテンションが上がって「思っていたのと全然違った。持って来たプレゼンテーション全部捨ててもう一度ゼロからやるから、これとこれを用意せい!」とか言って。その後女の子が写真撮ってもニッコニコしてて、「最初に言うてたこととちゃうやん。」て(笑)。場の力によって気分も変わっていくというのは、やっぱりCCOがポテンシャルを持っているのかなとは思うね。
——倉庫をそのまま展示空間にもするというMASK(MEGA ART STORAGE KITAKAGAYA)のアイデアも画期的ですよね。
北村:大型作品作っても保管する場所がない、というのは、それまで色々なアーティストから言われていて。でもただ単に作品を預かるだけでは我々にとっても地域にとってもメリットがないので、保管は無料だけど作品公開の際には協力していただくということを条件にしました。その大枠を作った上で、アーティストのヤノベケンジさんやキュレーターの木ノ下智恵子さんに相談にのっていただき、プロジェクトを具体化しました。
CCO近くに空いた大きな元鉄鋼倉庫を、不動産事業用物件とせずKCV構想の盛り上がりに合わせて大型美術倉庫にしよう、というアイディアからのスタート。2010年頃から構想が始まり、公開は2014年から。
撮影:仲川あい
芝川:近所の小学校の授業にも組み込んでもらっています。京都造形芸術大学ASP学科と連携して、1年生から6年生までに作品の見方のレクチャーをした後、実際にMASKに来てもらってワークショップをやったりしています。
北村:そうすると子どもたちも覚えているので、すみのえアート・ビート(注5)やMASKの公開時にリピーターとして家族を連れて来てくれるんですよね。
芝川:子どもたちが「アートの町や」って言ってるんやろ?
北村:「北加賀屋ってアートの町なんでしょ?」って。MASKについてさらに言うと、やなぎみわさんのトレーラー作品の関係で演劇の稽古場として使われたり、作品制作の場所としても活用しています。企業が運営している財団で、このような産業遺構を大型作品の保管・展示空間にしているのは珍しいですね。
芝川:やなぎさんのトレーラーの件も傑作やったな。「横浜から持ってこれへん」って。
《日輪の翼》大阪公演 撮影:仲川あい
北村:横浜トリエンナーレでの展示後、MASKの展覧会オープニングに合わせて持ってきていただく予定だったんですが、トレーラーが仮ナンバーなので大手の運送会社が移送を引き受けてくれない、と。それでアーティスト側が「さあ運べない、どうしよう」と困っていたんですよね。
芝川:みんな難しい顔してたから、「そんなんすぐ頼んだる」って地元の関係先にお願いしたら、パッパッと決まって取りに行ってくれた。それで南港の運送会社のおっちゃんがやなぎさん専属みたいになってしまった。トレーラーが舞台となる『日輪の翼』公演の最後、トレーラーが夜の闇の中に消えて行くんです。おっちゃんが運転してるんやけど、アーティストの気分になったみたいで、「片輪走行してもええですか?」って言ったらしい。彼はどこの展示にも行ってるから見てる中で「俺もいっちょ」って気分になってるんやろね。それは面白いなと思う。普段アートに関係無い人に、そういう変化を及ぼすのは、アーティストの大きな力だと思う。私も含めてね。
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